あなた「この」人間が生きていたほうがいいか判断できますか?                  パーソン論からの眺め

人間の極限状態、例えば安楽死尊厳死脳死や妊娠中絶など問題で問われる生命の質の問題をどう扱えばよいのか。


もはや意識を取り戻すことのはないが、生命維持装置によって延命可能な状態。
死期が間近に迫っており絶え間ない苦痛が伴う状態。
誕生はしたが重度の水頭症で延命を行っても数日で死亡してしまう場合。


感情的には無理に生かして苦しめる必要が無い、楽にしてあげることも許されるだろうと考えてしまう。
だが楽にするとは彼らを殺すことに他ならない。生きているより死んだほうがましと考える私がそこにはあるということだ。


パーソン論はそんな彼らを殺す私を倫理的に間違いではないと言う立場を主張する論だ。
はじめに断っておくが、あくまで彼らへの思いやりから生まれた論であり優生学から始ったものではない。


人間を生物学的な生き物としての人と生命権のある人格(パーソン)に分けて考えようという前提からスタートする。
生き物としての人というだけでは生命権が無い。人格があってこそ生命権があるのだと。
人格の用件を満たさない人は殺しても殺人には当たらない。では人格の用件とは何なのか。
人格とは明確には定まっていない。なぜなら人格の定義が「生命権をもつ人間」人の定義になるからだ。
『ここからここまでが人間ですよ。あなたは人間ではないただの人です』という事が論の中心になるのは当然の帰結になる。
現在主流の考えとしては「自己意識を持っている」というのが条件に挙げられている。
生命権は「生きたい」という自己意識があって欲求されることにより成立するものだという捕らえ方だ。
また自己意識があれば目標を定めたり自己決定できたりと自立的な行動が可能となる。


トゥーリーという人がこの論を立ち上げた哲学者だ。彼が立ち上げた背景には生命というのに対する考え方の変化があった。
従来生命はそれのみで神聖で侵すべからずのものであった。
「汝人を殺す無かれ」
誰だって死にたくは無いだろうし、殺す事が善い事のはずが無い。助けられる命は助けたい。何十時間も連続勤務している病院勤務の医者の方々も金銭のみできる話ではない(病院勤務の医者は必ずしも高いわけではないので金銭すらない事もある)、助かる助けたいからという心が無ければ続かないのだと思う。(現在の医療リソースの問題はそのシステムが頼っているのが心だけだから折れてしまうのだ。)
やがて医療技術が進歩してくる。昔は回復するか亡くなるかであったが意識の無い状態で生存可能になったり、生後すぐ死亡してしまうような重度の未熟児や先天的障害でもある程度は生存可能な状況になってきた。妊娠はしたが出産はしない選択も生まれた。
昔は生命が助かることが善き事でそれが生命の質と同じと見なす事ができたのた。今は生きていることが即善き事であるといえない状態が生まれている。昔救えなかった命が救えるようになったからこそ発生した問題であり昔からすれば贅沢で深刻な問題がそこに生まれたのだ。


人格が無ければ人ではない、ただこれではあまりにも乱暴だ。
次回は問題について考えたいと思う。


参考は以前お勧めしている

生命倫理学を学ぶ人のために

生命倫理学を学ぶ人のために


PS 
代替医療が問題化した際にいつも考えるのはこのような問題についてどこまで考えているのか不明なところだ。ホメオパシーは患者側に守秘義務を求め、西洋医療を受けることを自己判断でせよと丸投げしながら、西洋医学を受けると寿命が縮むだのホメオパシーが効かなくなるといって脅す。ホメオパシーのみ受けて亡くなってしまったら自己責任で、悪化し西洋医療を受ければホメオパシーはもう効かなくなった・西洋医療の生で死んだと言う。ホメオパシーのみを受け結果的に治った(というと語弊があるが)人のみを自らの手柄とする。ここにどんな倫理的・道徳的な誠実さがあるというのか。簡単に生命そのものの価値につながる表現を使いながら死を引き受けない。
死は誰も経験した人は生きてはいないが、みな自分が死ぬことは知っている。医療と隣り合わせにある死はそんなに軽くは無い。

QOL クオリティオブライフ 

QOLは一般的には生活の質と訳される。インフォームドコンセントはQOLを高めるために行われる。
医者から病状の説明や治療方法の提示、複数の治療法がある場合はリスクや治癒率や副次的に背負う今後の生活への障害などを患者自身が自分の為に自分で選択することを可能にする為にある。
インフォームドコンセントは全ての医療情報やまれに発生するリスクの開示までを求めるものではない。
患者が望む情報では無く、通常の判断で考慮される情報の提供を求めているものだ。
もし患者が求めている情報のレベルまでの開示を求められるとするのならば、患者が疑問を整理している事と患者を十分に医者が理解するだけの十分なコミュニケーションが必要になる。


極限状態で顕在化するもうひとつのQOLに「生命の質」と言うものがある。
本来生命への神聖さが十全に機能する場合には表に出てこない。
脳死や不可逆的な植物状態になった人や余命いくばくも無く耐え難い苦痛に苛まれれ、安楽死尊厳死を検討する場合だ。

本来第三者が他者が生存する価値があるかどうかを問うことは許されない。
少なくとも我々はそのような社会の中に生きている。人の命に上下は無い。

しかし極限状態にはこの問題が立ち上る。
果たしてこの人の生には苦痛に耐えて生きる価値があるだろうか。
意識が戻ることが無いことが医学的に確定になった時、人工呼吸器や栄養補給を行って「生きさせる」事が果たして本人にとってよい事なのか。
問いに対して、この状態でも問うことが許さない生命至上主義的な考え方もあるし、パーソン論から容認する立場もある。

極限状態では他者が本人の為に「生命の質」を問う場面がある。
極限状態でしか他者が「生命の質」を問う事は許されない。
それ以外で生命の質を問うことは差別だ。パーソン論の扱いに慎重を要するのも差別につながりかねないからだ。



さて

医療的な介入を嫌悪し、自然なお産を推奨する人々がいる。
自然なお産を推奨する助産院や医院の選択・自家出産だけでなく、無介助での出産の例もある。
曰く
「自然なお産で生まれた子供は目の輝きが違う」
曰く
帝王切開で生まれた子供は自然ではない」
曰く
「管理されたお産は子供の生命力を奪う」

自然なお産で生まれた子供よりが病院で生まれた子供よりもすばらしいとする考えだ。
目の輝きとは何なのか。
これは生命の質を問題にしているのではないのか。



差別意識は自ら意識しない行為にこそ現れる。

相対主義

相対主義が適応できる条件は緊急性が無い案件である。

命の問題に相対主義は通用しない。文化や主義が違っていても身体構造は違わない。
治療法が選択できる状態は、死への距離が遠い場合だ。
交通事故や急性症状の激しい感染症に通常医療かホメオパシーか選択する余地が無い。


相対主義が適応できる条件は選択可能な環境が存在する場合である。

貧困状態では選択する選択肢が存在しない。
貧困状態では個人主義主張や医療の自己決定権、生命倫理より資源の効率化が最大の命題になる。


そして相対主義は「それを理由に他の考えを否定する」為にあるものではない。他の考えを認めるためにある。
相手の尊重し、自身の尺度のみで判断することを否定する行為を伴う。

相対主義を理由に他のもの否定した瞬間、決定が不可能になる。
それでも決定できると考えている人は


自分だけが客観的に判断できるとうぬぼれている」ただの主観主義者だ。

つまり相対主義者ではなく「自己主観主義」に他ならない。

相対主義はそんなに軽いものではない、覚悟がいるのだ。

パターナリズムとインフォームドコンセント、そして

インフォームドコンセントの権利は、自己決定権から生まれたものだ。
自己決定権とは
「自分のことは自分が一番わかる」「自分は自己の所有物である」「決定内容を理解し決断する能力がある」
と言う前提が存在する。


インフォームドコンセントを受けての自己決定は
「患者が欲しい情報を医者から受け取り、それを理解する力をもった患者が、自分の最善となるように決定する」
と言うことになるが、それは理想形に過ぎない。不十分な状態での判断を迫られることになる。


患者が医者で無い限り、医者と患者が同等の医療知識を持つことは極めて少ない。
インフォームドコンセントが全ての医療情報を患者に提供することを求めている訳でもない。
患者が提供された医療情報を余すことなく理解する事は不可能であるし、
患者が求めている医療情報も何を求めているか医者が全てわかる訳ではない。
どこまで説明するかは医療訴訟リスクと患者の要求とパターナリズムの間にある。
もちろん「全てお任せします」という意思決定もある。自己決定権の放棄を自己決定するということだ。


結局、医者の誠実さが根幹にあるのだ。最善の提案をしてもらえると言う信頼が患者の自己決定を可能とする。
どこまで言っても医療がパターナリズムでなくなることは無い。
そしてその提案を支えているものは提案内容が効果があることを確認し積み重ねてきた医学であり、
科学的な妥当性だ。
パターナリズムがなくなる状態は、真に医師と患者が同等の知識・判断力・経験を持つ場合のみだ。
その時初めて全責任を患者自身が負う真の自己決定の状態になる。


ホメオパシーは患者が自由意志で自己決定しているというが、本当に治療開始から治療内容まで患者が自己決定しているのか。
ならば、ホメオパスも患者も同等でしかないと言うことになる。同等ならば偏務的に責任を負う必要が無い。


それは専門家ではない。非対称性が存在しない専門家など無用だ。


ホメオパシーは医療ではないと言う話は無用だ。病を介入的行為で正常な状態にする事が医療でないなどと言うはない。
身体に他者が介入する行為はレメディであろうと薬品であろうと手術であろうとそれは暴力である。
正当化される理由は患者の健康を回復することで幸福を増大させるという目的によってである。

もしホメオパシーに専門性があるのならば、パターナリズムを発揮し非対称的な責任を負わねばならない。
たとえ積み重ねてきたものが「過去に否定された科学」であったとしても。

ホメオパシーバッシングと捉える前に

ニセ科学を批判している人の大半はすべてのニセ科学を撲滅やら排除やらをサクセスポイントに選んでいるわけではない。まずその事を念頭に読んでほしい。

ニセ科学に関心があった人々がホメオパシーに対して一斉と思える反応をした理由は
「日本に広がっているホメオパシーが現代医療を否定する方向性を強く持っており、生命に対する危険が大きいこと」に尽きるとのではないか。

確かに効果の確認できない医療関連行為として針灸やがあり、腰痛以外に効果のないカイロ、効果の検証がなされていないものが大半を占める漢方があるが、少なくとも医療忌避を進める割合が中心にはない。

代替医療ではNATROM先生がおっしゃるとおり、代替医療は軽症例の中に潜む重症例初期をスクリーニングできない。日常でもちょっと体調が悪い状態でも我慢していたらすでに手遅れと言う自体が発生する。「もっと早く診察を受けていれば」という話が珍しいものではない。

ところが危険度が高い代替医療は体調の不具合に気がつき早期から治療を受けているにもかかわらず「残念ながら手遅れ」と言う自体が発生する。それが一般水準の現代医療で治療確率が高い病であった場合でもだ。

他の代替医療に危険性がまったく無いかと言えばそうではないのは事実だ。成分合成的な医薬品は害があるが漢方は無いとか、骨格の歪みが万病を招くとか言っている事もある。漢方薬小柴胡湯で副作用事故が起きたこともあるし、その理由を証で判断せず西洋医薬品的な処方を行ったせいだと主張する人がいるのも証の実体検証不足も事実だ。
漢方薬大手が二重盲検による効果検証に対して効果が無かったときの営業的リスクが大きく検証に積極的でない話も聴く)

それでもホメオパシーがより問題視されるのは、快楽的な性向でも陰謀でもなく、現代医療忌避の問題があまりにも大きいと言うことを念頭において考えてほしい。


余談にはなるが「水からの伝言」への言及も同様の構造がある。
それはまた改めて。

考える前に

医療問題を考える際に「問題でない」「問題である」と言う前になぜ先人の検討を参考にしないのだろうか。「生命倫理学」や「医療倫理学」という領域をご存知の方が少ないのかしら。せっかく検討しているしている人がいるのだから参考にしない手はない。

自身が考える参考文献としては

生命倫理学を学ぶ人のために

生命倫理学を学ぶ人のために


あなたの疑問や考え方が、車輪の再発明とならぬように。

哲学しようなんて言わないから

高校に倫理の授業があった。正確には授業があったことになっていた。
教科書を買っただけだったが、選択で日本史や世界史を実際にはやっていて授業はなかった。

ホメオパシーや万病に効くなんとか水、はては全知の水をもてはやす人々を見ると
高校で哲学の基礎を学ばせる必要があるのではないかと考えてしまう。
いや哲学や哲学史などを学ばなくても


①知識の真偽と何が善き事で何が悪いことなのかは別カテゴリの問題である事。
②「である」と言う事実から「すべきた」という価値を直線的に導けないこと。
③ベン図の書き方。


この三つを叩き込んでもらえないだろうか。
クリティカルシンキングなんて贅沢は言わない。

ただこれだけ。